松兄のビジネスストーリー

元自衛官→農業→飲食→投資家スタート(今ここ)

貯蓄0円から会社を初めてみて7年目

初めまして。

わたしは農業をしながら
移動販売形式で飲食店をやっています。

ざっくりと今までの経緯を書けば…
まず農業を始めた理由…
というか、流れは

ちょうど10年前に
関東から北陸へ引っ越してきました。

当時は自分で会社を持つ事なんて考えは全くなく。
普通に求人を探しては
会社勤めしてました。
当たり前のように。

しかし、ある時
体調を崩しまして、最初は風邪だったのですが
風邪も治りかけの頃、今度は「周期性四肢麻痺」という病気になりました。

これは、ずっと体が麻痺するわけではなく
不特定な時間に、ゆっくりと体が麻痺し
わたしの場合は症状が酷くて
寝返りも打てないほど、麻痺が出ました。

麻痺が出る時間は、自分ではわかりません。

しかし、必ず1日のどこかで
ゆっくり足が動かなくなり、次に腰
次に手、頭は動かせるのですが、逆に頭以外は
動かそうとしても、動きません。
そうなると次に体が回復するには半日以上の時間がかかりました。

半日は動けて、半日は寝たきり
そんな状態でしたので、務めていた会社も退職。

正直、引っ越してきてから
土地にも人にも慣れてない状態での、無職状態は
物凄く不安でした。

体が動けるタイミングを見て、病院へ行くと
病名は「バセドウ病甲状腺の異常。との事で
治療に3ヶ月ぐらいかかりました。

段々にですが、麻痺の出る時間も
体に出る麻痺の強さも和らいできたので
ずっと寝ているわけにもいかず、求人を探す事に。

しかし、なかなか御縁もなく
何回かハローワークに通う中で
目に付いたのが、とある米農家さん。

今、思い返せば
まだ体も完全回復してない状態で
よく農家に目がいったな…
とは思います。笑

ダメ元で連絡してみると

「1回、来てちょうだい」との事。

これまた、ダメ元で
面接も含め、これまでの事情を伝えると

「もうちょっとで治るなら、うちに来なよ」

との返事。

正直、「へ?」っと思いました。

「体が調子悪いのは、困る」

と、言われるのが落ちだと思ってましたので。苦笑

でも、嬉しかったですね。
この時、話したのは
わたしの親ぐらいの年配の社長さんなのですが
なんか…嬉しかったです。

ちょっとだけ、月日も流れ
ずいぶん麻痺も気にならなくなったので
待たせていた米農家さんへ合流。

わたしは農業経験者というほどではなく
6歳ぐらいまでは、爺ちゃんに連れられては
田んぼ仕事や、畑仕事を手伝って…
いや、手伝いと呼べるほどではないですね(笑)

田んぼ、畑で遊んで育ちました。

でも、覚えてるものですね…
久しぶりの田んぼ、畑が
物凄く懐かしくて、心地よくて。

2ヶ月もすると、田んぼも畑も
ほぼ全て任せてもらってました。

機械も段取りも。

記憶から、何か知っていたのか…
得意分野だったのか…
天才なのか…(ニヤリ)

ある時、社長(次からはオヤジさんと書きます)に
「松ちゃんは自分でやらないのか?」
と、聞かれました。

わたしは「お金もないし、設備も揃えられないから自分ではやらないッスよ!」と答えたのですが…

オヤジさんは
「アホ!お金の有る無いは関係ない。
やりたい事ってのは、やりたいからやる。
だいたい、お金は命は奪わんぞ?
やりたい事は大事にせんとな!」

まだ、その時は
「まぁ…そう言われてもなぁ…
借金とか恐いしなぁ…」
的な受け止め方しか出来なかったのですが
この言葉が、今後、自分を押す言葉になるとは
この時は思いもしませんでした。

わたしが、この農家さんに世話になりだしたのは
初夏の6月ぐらいだったのですが
月日は流れ、
米農家のビックイベント「稲刈り」も
無事終わり

出荷も落ち着いてきた頃の冬。
12月。

何日かオヤジさんは仕事に出てこない日が続きました。

ある時、しんどそうな顔のオヤジさんに
「大丈夫ッスか?どうしたんですか?」
と聞くと…

「大丈夫じゃ!」の一点張り。

オヤジさんなりに、心配かけまいと
わたしが休憩していると、隣に来ては座って
たわいもない会話をするのですが
どう見ても顔は、しんどそうだし
どっか心ここに在らず状態。

暮れの頃になると
全然、仕事場には来なくなり
奥さんから「入院したのよ」の言葉。

確かに、無理する人だし
我慢して何か悪化したんだろうなぁ…
まぁ、でも
正月明けには、復帰するだろう。

と、残された仕事を
黙々とこなす日々。

年も明け、成人式の頃。

奥さんから
「松ちゃん、ごめん
今日、朝方
社長亡くなってん。
だから仕事しばらく休んで。」
って、電話が。

一瞬、何を言われてるかわからなくて
「え?」しか返せず…

状況が飲み込めないというか…
しばらく思考停止してました。

通夜があり、葬式があり。

悲しんでもいられず…
色々とバタバタしながらも
仕事方は、従業員として回さないと
それこそオヤジさんが困るな…
との思いで
寂しい感じになった職場で
作業は続けました。

そして
春になり、田植えの準備も整った頃。

「農業で独立しないか?」
の話が
たまたま、わたしの所へ来ました。

この理由を書けば
わたしが世話になっていた米農家さんは
わたしが住む町から2つ離れた町で
当時、わたしは1時間ぐらいかけて通勤していましたが

農業独立の話は
わたしが住む町の方から出た話でした。

どうやら、農家研修している人がいる
って事で、ならば耕作放棄地の管理も頼めないか?
という流れだったらしく
わたしの所へ、農業を頼めないか?
となったのです。

わたしとしては、オヤジさんに恩もあり
オヤジさんが抜けた職場を考えると
米農家を辞める気もなく。

その話は断りました。

しばらくして、休憩時間に
何気に、そんな話があったんですよ〜
みたいな事を話していると…

奥さんが
「松ちゃん、やりなよ!それ。」
って。

意外でした。
絶対に引き止められると思っていた奥さんに
逆に薦められる事、事態が意外でした。

「いや、でも大変じゃないですか?
大丈夫ですか?」って言葉に奥さんは

「お父さんいたら、なんて言うと思う?」
って…

確かに…
「お〜!松ちゃん!やれやれ!
そういうのは、やった方がいい!」

って言うやろな…
悩み考えるなら、やりたいなら、やれ。
ってのは、オヤジさんが俺に
農業より伝えたい事だったんじゃないか?
と、この時
というか…
むしろ、それを伝えたった人だった。
しかし、そう腑に落ちる反面…

実際は、もう少し悩みました。

どっか、素直に
よ〜し!やるかー!の踏ん切りがつかなくて。

嫁の親にも
コソッと相談すると…
「農業で自立!?やっていけるのか!?
そんなんで!?」
と…

ある意味、想像通りの返答。

確かに現実的には
農業で生計立てるのは、大変。

だから担い手も減る一方だし
若手も育たない。

でも、何か…
「俺なら、この大変な農業をどう組み立てる?」
という…
チャレンジ精神というか…
何か、、、
自分を試してみたい気持ちというか…

モヤモヤモヤモヤとしながら
誤魔化すように、日々を過ごしてる中
思い出すのはオヤジさんの言葉。

「やりたい事なら、やれ」

なんか…
松ちゃん、恐がったら何も出来んぞ?
って今言われてる気がして…

今の俺を知る人は
こんなモヤモヤした経緯があったなんて
想像しないかもしれませんが
当時、自分が看板上げる前には
わたくし…
こんなにも、モジモジしてた経緯があります。

それから、気持ちを
奥さんに話して

自立するわけです。

こうして、ドタバタ劇の
農業法人「菜友館」が始まります。

それが今から7年前のお話。